5
満月が、闇を押しつぶすように照っている。
闇を装いとして纏うフィーメルには一番苦手な夜だと言える。
だが、今夜のフィーメルにはそんな恐れなど何の意味もないほど
意識も、そして肉体も高揚していた。
自分の意識がカバーする範囲でなら、たとえ犬一匹であろうと
自分に意識を向けるものがいれば感じ取ることが出来るだろうし。
第一、その意識が覆う範囲ですら、いつもよりはるかに大きくなっていることを実感できた。
今夜なら、自分のほうが早く響子を感じ取れるだろう、そんな気がした。
「こんばんは」
「こんばんはハンターさん」
響子はテラスでフィーメルを迎えた。
今夜、響子は男物かと思えるような白いシャツを羽織っただけでいるようだ。
「今朝は、挨拶も出来なかった。だから」
「それで、今夜も来てくれたのね」
「それに」
「なにかしら」
「あなたが欲しい」
「あら、やっと殺してもらえるの?」
「違う、そうじゃない。そうじゃなくって」
「ごめんなさい、判ってる」
「なら」
「ええ、でも今夜はだめよ」
「何故。わたしの獲物、そうなんだろう」
「そうよ、その通り。だからだめなの」
「どうして。それとも何かして欲しいのか?そうすれば」
「いいえ、違うの。
今夜、ここに来てるのがハンターさんの姿をした絵理花さんだからよ。
違って?宮野絵理花さん」
次の瞬間、響子の喉にフィーメルの爪が突きつけられた。
「何故判った?」フィーメルの声に悔悟と、絶望が滲む。
だが、響子はその質問に答えない。
「ほらね、それが理由」
「何を言っている。質問に答えたらどうだ」
「このまま始末してもらうのもいいかなって思うけど。ハンターさん以外の
小娘に始末されるのも嫌だしなぁ」
「いい加減にしたらどうだ、わたしは、わたし。違うとでも言うのか」
「いいわ、教えてあげる。何故、今夜はだめなのか」
「今は別の………」
「いいえ、その話なの。あなたは今夜自分ではいつもより意識が広がって
なんでも見える気でいるんでしょ。
でもこちらからみると、大きな台風みたいなのが、
わたしのお部屋を目指して一直線に飛んでくるのが丸見えよ」
「たい、ふう?」
「そう、満月に浮かれて吹っ飛んでくる台風ね。
わたしはハンターさんの獲物だけれど
そんなうかつな小娘に食べられてあげるほど親切じゃないの」
「そ、それは。わかった。だが、もう一つの……」
「そうね、そっちは黙ってるとかわいそうよね。昨日の夜、ハンターさんが寝ちゃったとき」
「あ、ああ」
「ハンターさんが可愛い寝息を立てちゃったから、どんなお顔で寝てるのかなってみてみたら。
かわいらしいレオタード姿のお嬢さんが寝てるじゃない。
どうしようかなって思ったわよわたし」
「じゃ、絵理花の姿に」
「ええ、そうね、どこかでみたお嬢さんねって、後から気がついたけど」
「それで、言葉じゃなくって」
「ええ、そうよ。もしそのままで目を覚ましたらお互いにばつが悪いなって思ったから。
あっちのほうで呼んだの、ハンターさんの姿で出てきてくれてほっとしたのよ、わたし」
「すまなかった、はしゃいでいたらしいな」
爪を納めるとフィーメルは体を翻そうとした。
「待って頂戴、絵理花さん。いえ、もうハンターさんになってる見たいね」
「何かあるのか?」
「うふ、今夜台風になって飛び込んできた罰よ。それはねえ………」
「なんだ、早く言って」
響子は含み笑いをしたままなかなか答えない。
「じゃあ言うわね」
響子は背中を向けると着ていたシャツを脱ぎ落とした。
満月に照らされて響子の白い背中がフィーメルの視野を埋める。
彼女にはまるで、それが巨大な白い蛹のように見えた。
いましもそこから月光を纏った蝶の翅が拡がるのではないか、
いや、フィーメルは確かにそれを見たと思った。
「うふふ、ハンターさんの、これが獲物よ。でも、今夜はね」
「こ、今夜は?」
「精気だけを吸ってお帰りなさい」
「あ、ああ」
「そうしたらね、せっかく今夜は意識が拡がってるんでしょ。
出来るだけ遠くから自分の気配を隠して、貴女の獲物がどんな風に蜘蛛の巣の上であがくのか
ちゃんと見てらっしゃい」
「変態女」
「お褒めにあずかって光栄ね。さあ、これが今夜の罰、お食事したらちゃんと帰るのよ」
いったい蜘蛛の巣にかかっているのはどちらの方なのだろうか、
響子のあえぎを遠く離れた場所で聞きながらフィーメルの脳裏からその思いが離れなかった。
6
日中響子の部屋を訪ねるものは少ない、まして予告なく訪ねる者など誰も。
だから、予告なくインターフォンが鳴り、マンションの戸口に立つものの姿を
カメラで確認した響子の唇は軽く微笑の形に引き上げられた。
「どうぞ入ってらっしゃいな」
マイクに向かって話しながら、予想外の訪問者をどう扱ったものか、
響子も考えを巡らせている様だったが、部屋に招じ入れられた訪問者を
彼女は黙って抱きしめることにした。
「で、どうして泣いてるの絵理花さん?」
鞄を持ったまま黙って抱擁されていた制服姿の少女を眺めなおすと響子が尋ねる。
「私、泣いてなんかいません」唐突な響子の質問に少女が答えるが
確かに彼女の目には涙など浮かんではいなかった。

「あら、そうなの、でもわたしには、そう見えるのよね。
じゃ、いったい何の御用なの?」
「なんの、ですか。私、ほんとに何の用なんでしょう」
「ほんとうに、しかたがないのねぇ、今度はそんなになっちゃって…」
呆れ顔で響子が返したとき、電話のコール音がなった。
「じゃ、ちょっと、まってて。どうせあなたなら、電話の中身は筒抜けね。聞いてていいわよ」
絵理花の返事を待たずに響子は受話器を取り上げる。
「はい、ええ、わたくしです」
相手はどうやら中年の男性らしい
「ええ、今日お見えになりたいとおっしゃっておられるんですのね」
「では、今日こちらにお見えになるのは方角が悪いとお伝えください」
「え、どうしてもと仰っておられると。いえ、御用のむきは仰られなくとも」
「では、どうぞとお伝えくださいな、
そのかわり、わたくしのご忠告を無視しておいでになるわけですから。
今後のわたくしのことばも、意味は無くなることもお伝えくださいな」
「ええ。はい、え、電話でですの。ええ、ではこのままお待ちします」
次に聞こえた声はどこかで絵理花も知っている声だった。
どうやら、かなりの年配のようだが普段はもっと傲慢な声を出すのではないか。
それが響子には、助けを求めて擦り寄ってくる子供のような声を出しているようだ。
「はい、ええ、今日こちらにお見えになるのは方角が悪すぎますの」
「ええ、仰らなくともわかります」
「妥協なさるの?」
何かを断罪するように響子の声が静かに、しかし重く落ちる。
どうやら、相手の老人はそれを強く否定したようだ。
だがその声音にはどこか強がりが見える気がする。
「いえ、それはあなた様のご判断次第、あなたがご判断を誤られまして?」
「ええ、もちろんです。またいつなりとご連絡を。
はい、ええ、いつも過分にしていただいております。おんな一人には、大層過ぎましてよ」
「はい、それでは失礼を」響子はゆっくりと受話器を下ろす。
「うふ、とうとうハンターさんにわたしの商売を知られちゃったわね」
悪戯が見つかった子供のような顔で響子が笑いかける。
「響子さんって誰かの愛人さんでもしてるのかって思ってたけど」
「愛人さんねぇ、まあ、あたらずといえどもってとこじゃない?」
「ずいぶん、相手の方が響子さんを怖がってるみたい」
「うふふ、でもわたしとお話すると、ずいぶん自信が付くらしいわよ。
おかげで、食べるには事欠かずにすむってわけね」
「あれで、自信がつくの?」
「ま、ひとそれぞれね。あれできっと自信を持って妥協するんじゃない。
どうせ、ほんとは自分で答えなんか用意できてるんだからさ」
「そうなの?」
「そうよ、あなたといっしょよ、絵理花さん」
「私といっしょ?」
「まあ、おじいちゃんのお相手するよりも可愛いお嬢さんのほうが良いからさ、
だから、これで今日はだあれも訪ねてこないわよ。で、ゆっくりできるの?」
「あ、はい、今日は私、コーチのおうちに泊まるって」
「ふうん、それで、そのコーチさんとやらはあなたの言いなりってところかしら?」
「ど、どうしてそんなこと」
「あら、もっとわかるわよ。絵理花さんが泣いてる理由がそのコーチさんのせいだって」
「きょ、響子さん…」
「さあねぇ、どうしてわかっちゃうのかな、とりあえず思ったことを口にしてるだけだけど」
「そんなに私、わかりやすいの?」
「どうだろ、ほかのひとが絵理花さんをどう見てるのかは知らないわ。
だけど今みたいに隙だらけの絵理花さんなら誰でも判っちゃうかもしれないよ」
「わ、私」
「ああ、もうしかたがないわねぇ。絵理花さん、お腹すいてるでしょ」
「はい?」
「だからそんなになっちゃうの。精気のほうはちゃんと吸ってるらしいけどそれじゃあ駄目よね」
そういうと、響子はキッチンに立って何やら食事を作り始めた様子だ。
「ほら、黙って立ってないで、手伝うなり、椅子に座っておしゃべりするなりしてよね。
まあ、そんな状態だからふらふらこんなとこに来るのよねぇ。
いいわ、テーブルの向かいに座って待ってらっしゃい」
家事をする響子の姿は絵理花の想像の外だったが、響子の手際は更に絵理花の想像を超えていた。
つい先程まで、雑然と食材が調理されているように見えたものが
最後の瞬間に一斉にたっぷりとした料理に姿を変えて絵理花の前に並べられる。
「さ、しっかり食べるのよ、はらぺこさんの頭には、ろくなことなんか浮かばないものよ」
自分も絵理花の向かいに腰を下ろすと響子は絵理花を眺めやってそう宣言する。
気が進まなかったものの一度口をつけてしまうと
自分がやたら空腹だったことに絵理花は気づくことになってしまった。
食事をしながら、響子に問われるまま学校のこと、
新体操で今年は「能力」に頼らずに納得できる演技ができそうなこと、
とりとめもなく話しているうちに、すっかりくつろいでいる自分を発見して
絵理花は、なぜ自分がここに来たかったのかをやっと理解できた気がした。
「響子さんってすごいのね、どうして響子さんを頼ってくる人がいるのかわかった」
「ふうん、それはうれしいわね、でもね、言っておくけどうちは高いのよ。わかってる?」
悪巧みを考えてますといわんばかりの響子の笑顔に
思わず「あの、いくらなの?」と問い返しながら絵理花には響子の答えがわかるような気がした。
7
「あきれたわ、まさかほんとに体で払いますって人がいるなんて」
絵理花の髪を指ですきながら響子がささやく。
「だって、自分で言ったでしょ」
「おまけに、払ってもらったんだか、サービスしてあげたんだか」
「すき、もっと払いたい、わたし」
「もう、しかたないわねぇ」
口ではあきれたようなことを言うのだが
響子が次にしたことは絵理花をしっかりと抱きしめてやることだった。
「やっと涙が止まったのね、そんなにこの姿に執着があるのハンターさん」
「そんなことないとおもってた、でも、この間寝ちゃったときに」
「ええ、絵理花さんの姿に戻ってたわよね」
「あのとき、はじめて抱かれたときのこと夢に見ちゃったから…」
「初めてのお相手が、コーチさんってわけね」
「そう…なの」
「でも、言いなりになるようにしてやったんでしょ、何されたかなんて
言わなくてもいいけど、それじゃ気がすまない?、そんなに好きだった?」
「う、ん」
「やれやれ、また風向きがおかしくなってきたかな。じゃ、許せないなら
殺しちゃえばいいじゃない」
「殺すの?わたしが、コーチを?」
「人を殺したことがないなんて言わないでね。何人殺してる?」
「それは、二人かな」
「嫌だった?人殺ししちゃった自分が嫌い?」
「ううん、仕方なかったと思ってる。自分が襲われたとかじゃないけど
自分で何が出来るのか試してて、精気の吸い加減が判らなくて」
「あら、大丈夫じゃないの。ちゃんと割り切ってるじゃない」
「やっぱり変。人殺ししましたって言ってるのに私のこと褒めてる」
「それはそうよ、だってハンターさんはこんなに可愛い姿をしてるけど、
やっぱりハンターさんでしょ、人間じゃないひとだもの」
「人間じゃないひと?」
「細かいことを気にしないの。ハンターさんが面白がって片っ端から殺してるんなら別だけど
そうじゃないでしょ?」
絵理花が黙って頷く。
若い女性が二人、寝台で枕を並べてするにはいささか問題のある話だが
この話をしている間も二人は互いの肌に互いの手を差し伸べ合っている。
「あなたがどう思ってるのか、知らないけど。わたしはそのコーチさんに感謝してるわよ」
「コーチに、感謝?」
「おかげでハンターさんと知り合えたものね、わたし。
その人のせいでハンターさんになった、そうでしょ?」
「響子さんっていったい何者?本当に人間?」
「あら、ハンターさんと違ってわたしはただの人間。人殺しだけどさ」
「人殺し?」
「直接は二人、一人が未遂、間接はまあ5,6人はいってるかしら」
「警察にとか?」
「追われてないわよ、不能犯ってやつだから」
「ふのうはん?」
「うふふ、まあね、わたしのことはいいじゃない。
とにかく、あなたにとってわたしも含めた人間は狩るべき獲物そうでしょ?」
「そう、思ってたんだけど」
「そうよね、あなたはハンターさんで人間じゃないひとの方が本当のあなた
だけれど、あなたは、けだものじゃない、心だってもってる
でも、だからといって、人間の部分をぜーんぶ絵理花さんに背負わせるのはどうなの?
その姿はハンターさんが自分を守るための大事なお顔でしょ」
「それは……」
響子は寝台の上に起き上がると絵理花も起き上がらせた。
「ねえ、いつもわたしに突きつけるあの素敵な爪とか出せる、その姿で?」
「それくらいなら」絵理花は中指の長い爪を伸ばして見せる。
「ほらね、やっぱりハンターさんじゃない?」
「でも自分でも絵理花に戻りたいのかフィーメルスパイダーでいたいのか
判らなくって」
「ああ、フィーメルスパイダーって言うのね、ハンターさんのお名前。
素敵な名前じゃない」
「初めて呼んでくれた。わたしの名前なんか聞かない癖に」
「そうだったかな?いいわ、名前を聞かせてもらったんだものちょうどいいわよね」
響子は絵理花の腕をとってあの長い爪に口付けた。
「何するの、危ないわ」
「駄目よ引っ込めちゃ」
響子はひとしきりその長い爪を愛撫するように愛でていたが、やがてその爪先を自分の胸、
あの心臓を指し示した場所に押し当てた。
「やめて、本当に刺さっちゃう」
「黙ってじっとしてらっしゃい、爪は伸ばしたままにしてね」
やがて白い肌から血だまが膨れ
さらに響子の手に力がこもると鋭く長い爪先はするりと響子の肌に潜り込む。
「きょ、響子さ……」息をのむ絵理花を知らぬげに響子は涼しい顔をしている。
「死ぬ気はないから心配しないの。ね、判った?
どんな姿をしていてもあなたはあなた、ハンターさんなのよ。
あなたは自分のためにこれを振るえばいいの。
なりたくてなった姿じゃないのかもしれないけれど、なった以上は自由に生きなきゃ。
あなたを縛ろうとする奴がいたら戦ってよね。
そう、初めて会ったときのあなたは誇り高いハンターさんだったもの。
だから、お願い、誇り高いあなたのこの素敵な爪にかけて誓って頂戴」
「何を誓うの?」
「束縛されずに自由に生きるって。そして自由に生きる為なら、ためらいなく力を使うって。
それから」
「それから?」
「いつかあなたの気が向いたときに予告せずにわたしを始末するって」
絵理花いや、フィーメルは響子の目をじっと見詰めると頷いた。
「わかった、でもわたしの爪にだけじゃその誓いには不足よね」
「あら、ほかに何があるの?」
「みて」
絵理花がかざした爪は響子の血に濡れて赤く染まっている。
「誓うわね。わたしフィーメルスパイダーは……」
自分の名前を名乗りながら絵理花が左の手を顔の前にかざす、すると彼女は彼女の本来の姿
フィーメルスパイダーの姿に立ち返った。
「わたしの爪とあなたの血にかけて、
束縛されず自由に生きて
そしてわたしの獲物をこの手にかけることを誓います」
「ハンターさん」

響子がフィーメルを抱きしめる、抱擁を返そうとするフィーメルに
「じゃ、もうひとつ。今日の料金代わりにお願いがあるわ」と響子が微笑む。
「いいわ言ってみて」
「今夜からわたしをハンターさんの情人にして」
「逆じゃない?」
「何言ってるの、わたしをいつか始末してくれるんでしょ。
わたしが愛人になるのが自然なの」
「おかしな理屈。いいわ、でも、いつ訪ねてあげるかわからないわよ」
「それでいいの、窓に鍵なんかかけないから」
「見て、響子、今夜からこの爪の色は貴女の血の色、きっと落ちないわ」
フィーメルがかざす深紅に染まった爪を二人は飽きずに見つめていた。
フィーメルスパイダーは闇を纏う。
眼下の窓はただひとつを除いて、彼女のために開かれたものは無い。
だが、それでいい、彼女を拒める窓はどこにも無い。
今夜、彼女がどの窓を開くのかそれを決めるのは彼女だけなのだから。
「窓」:female spider @ dark side END
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